2014年5月25日

笠懸、カッコいい!

さてさて、「鎌倉珍道中」の次の日。
鎌倉からちょっと離れて、京浜急行の終点・三崎口駅に集合です。

今回の行程は図らずも同じメンバーで2日間となったのですが、本当は最初、1日目の鎌倉散策のみでした。


・・・が、たまたまメンバーのうちの岡田さんさとみんさんと一緒に飲みに行ったときに、そのタイミングで私が「鎌倉散策」の次の日に「道寸祭り」が行われるのを見つけてしまったという (^^;)

「道寸祭り」というのは、鎌倉以来坂東武門の名族である三浦一族をしのぶ供養際とともに、三浦一族のお家芸として伝えられてきた「笠懸」が披露されるお祭りです。

そして、「道寸祭り」の会場となる油壺の名前は、三浦一族が滅亡の際に湾に実を投げて、その血潮がまるで油のようであったという伝説に由来しているように、この会場の一帯には三浦一族の本拠であった新井城の城跡があります。

この新井城、主な遺構は東大臨海実験所の中にあって、普段はほとんど見ることができないのですが、年に一度この「道寸祭り」のときにだけ一般開放するという情報が・・・


後北条氏好きな私としては、関連するこの新井城ぜひ行きたい~!とごねていたら、岡田さんも「笠懸」が見れるのはなかなかないので、ぜひ行きたい!とのこと。

すったもんだしたあげく、1日目鎌倉2日目「道寸祭り」&新井城一般公開の計」2日間のツアーとなりまして、その2日目。



集合場所に、岡田さんが来ない・・・?

実は岡田さん、1日目が終わった後体調を崩されて、結局この日は残念ながら最後まで合流できず。この日は3人で散策&笠懸観覧をすることに。

三崎口駅からバスに乗って15~20分ほど、終点の「油壺」で降りて東大臨海研究所の脇から海に向かって降りたところにある荒井浜海岸が「笠懸」の会場です。

まずは1つ目のお目当て、新井城の一般公開を見た後(そちらの詳細は、後日また別の城ブログで)、砂浜に設置された会場に陣取って、いよいよ「笠懸」の開始です。




「笠懸」というのは平安末期から鎌倉、室町時代にかけて流行した流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)と並ぶ三大古弓馬術のひとつで、儀式的な色彩が強い流鏑馬に比べて、場所も直線ではなかったり、的もいろいろな高さ・方向・大きさに置かれているなど、より実戦的なものとなっています。

この地での「笠懸」は、源頼朝が三浦三崎遊覧の際に笠懸が催されたことや、三浦一族が弓上手として知られており「笠懸」が三浦一族のお家芸として伝えられていることにちなんで、昭和54年に恒例行事として復活させ、三浦一族の鎮魂際とともに催されているものということです。





神事を行った後、まずは馬の足慣らしを兼ねて、射手のお披露目。
この日は1組5人で2組、合計10人で競射します。

よくよく見ると、三浦一族の供養際なのに、なぜか幔幕も旗もみな武田菱・・・?

実はここで笠懸を披露しているのは、鎌倉に所在している武田流弓馬道の大日本弓馬会の方々なのだそうです。

武田流というのは小笠原流と同じく、弓馬軍礼故実を伝える流派で、清和天皇皇子の貞純親王を起源として清和源氏から安芸武田氏~若狭武田氏と伝えられ、若狭武田氏の滅亡とともに姻戚の細川幽斎に伝授され、家臣の竹原家により熊本で保存されたのだそうです。

海を背景にしての古式にのっとった装束での騎乗は、往時をめちゃめちゃ妄想させます・・・!


お披露目が終わったら、籤で笠懸の順番と馬を決めて、いよいよ笠懸本番です。




「道寸祭り」での笠懸は、流鏑馬のように「一方通行」ではありません。

まずは、海に沿って弓なりになった馬場に2ヶ所置かれた的を走りながら射ます。
1組5人騎射が終わった後、今度はまた一番手から逆走して「小笠懸」を行います。




「小笠懸」は的が小さくて、低い位置にやはり2ヶ所置かれています。

しかも右側と左側に1ヶ所ずつ置かれているので、射手から見ると足元に見えるような的に対し、馬の頭を越えて長い弓を捌かないといけないわけで、非常に難しくて高い技術を要求されるとのことです。



この会場は、あまりお祭り自体を知られていないせいなのか、本当に馬が疾走している間近で見ることができるので、すごい迫力で笠懸を見ることが出来ます。

なので、素人の私でもスマホでなかなかいいアングルの写真が撮れました。
道理で、バズーカ砲みたいなレンズのカメラを担いだおじさんが大勢来てるわけだ・・・(^^;)

撮った写真をセレクトしておいてみましたが、この迫力はなかなか伝わらないので、動画もおいて見ます。見れるかな・・・?




うぅ~、めちゃくちゃカッコいい!

自分でもやりたくなっちゃう・・・でも、そんな簡単にできるもんじゃないんでしょうね~☆

この後、2組目も競射し、上位5名による競射を再度行って順位付けをして、この日の笠懸は無事終了。

生まれて初めて見た笠懸、めちゃくちゃ感動&堪能しました~♪



帰り道、バスを待っていたら出演の終わった馬さんたちが帰るところに出くわしました。

装束を取ったらフツーのお馬さんたちです(笑)
大変だったろうな・・・お疲れ様でした!









2014年5月24日

見よ、あれが鎌倉の海だ・・・! ~鎌倉珍道中その3~

さてさて、朝比奈切り通しを抜け(鎌倉珍道中その1)、背中ぞくぞく?なスポットをいくつか回った(鎌倉珍道中その2)その後は、いよいよ和賀江島へ向けてGO!




珍道中メンバーてらさんの用意してくれた鳥瞰図によると、東勝寺跡から和賀江島まではこんなにある~☆

その道筋は現在住宅地の中を通る舗装道路となっている「小町大路」(小町通とは違います)をひたすら海まで歩くのですが、この日は実は5月にしてはめちゃくちゃ暑い日。

これまでの行程は比較的緑の中だったので、風が爽やかで歩きやすかったのですが、さすがに陽射しをさえぎるもののない舗装道路はフライパン状態。それよりは・・・


「東勝寺から山の上を行くルートもあるけど、どうする?」

上り下りもあるけど、フライパンよりはいいでしょ~☆

というわけで、そのまま山を登って「祇園山ハイキングコース」へ。



鎌倉は三方を囲む山と南側の海とが天然の要害となっています。そしてそれらの山々には現在多くのハイキングコースが整備されています。

「祇園山ハイキングコース」はそれらの中でも一番鎌倉の中心部に近いところにあって、東勝寺跡からずっと尾根伝いに南の八雲神社まで出ることができます。


それっ!と尾根に向かって急坂を登る途中途中にもいくつかのやぐらがあります。

案内はありませんが、道に面したその中の1つがとても丁重に祭られているようだったのですが、ちょうど人1人が座れるくらいの広さな上、ちょうど腹切りやぐらの真上くらいの位置。

もしかしたら、一族郎党は東勝寺や腹切りやぐらのあたりで自決したのかもしれないけれど(なにぶん870人という大人数!)、高時はもう一段上の、このあたりにいたのかもしれないな・・・

なんて、根拠のない妄想をしたりして☆

尾根に出ると、こんな道が続いています。



よくよく見ると、どうも普通のハイキングコースと少々様相が違っていて、写真では判りにくいんですが人工的な平場や土塁様の地形、どうみても掘割状古道のようなものが続いているんです。

それもそのはず、鎌倉のハイキングコースの多くが、鎌倉の外郭をなす山々の防衛ラインの古の連絡道であったのです。

先ほどの鳥瞰図で山々の上を結ぶ茶色い線が、まさにそれに当たるわけです。

だから、道が鎌倉街道のような掘割状になっているところがあっても、まったく不思議ではないんです。

それどころか、もしかして鎌倉幕府滅亡の東勝寺合戦のときに、戦うために、または落ちるために、この尾根を走った人々があったのかもしれない・・・またしても、そんな妄想がむくむく☆


しかしながら、今回は「ディープな鎌倉」散策とは聞いていたけど、まさかハイキングまでするとは思わなかったよ~(^^;) とぶつぶつ言いながらいくつかのピークを過ぎて、現れた分かれ道を左手に登ったピークが・・・



・・・見よ!あれが鎌倉の海だ~!!

ここまでの疲れが吹っ飛ぶような、これが祇園山山頂の展望台からの景色です。
ここからは鎌倉の町や由比ガ浜方面の海と稲村ガ崎、天気がよければ伊豆半島まで見えます。

樹木が茂っていて、目指す材木座海岸方面和賀江島は見えなかったんですが・・・(^^;)



元の道に戻って、尾根から下に下っていくと鎌倉最古の厄除け神社である八雲神社です。
後三年の役のために奥州に赴く途中で鎌倉に立ち寄った新羅三郎義光により勧請されたのが始ということです。

しかし、使われている紋がどーにも織田木瓜に見えるんだが・・・?



八雲神社を出ると、小町大路です。

小町大路と言うのは小町通りとは違います。
吾妻鏡にもその名が記されている、鎌倉幕府による都市計画の中核をなす「六大路」のひとつで、若宮通りの東側を平行して材木座海岸に至る鎌倉時代の基幹大路です。

日本最古の築港とされる和賀江島への流通経路にもあたるため、同じく「六大路」のひとつで長谷から名越切り通しに向かう大町大路と交差する大町四つ角付近は当時の鎌倉随一の商業地区であったとのことです。

今はめっちゃ閑静な住宅街です。

その大町四つ角から小町大路を南下して、横須賀線の踏切を越えてちょっと西に入った所にある由比若宮神社(元八幡)。



源頼朝の先祖である源頼義が、前九年の役の際に戦勝祈願をした京都の岩清水八幡宮をこの地に勧請したのが始まりで、その後、治承4年(1180年)に頼朝が遷座したのが、現在の鶴岡八幡宮です。

つまり、鶴岡八幡宮の前身?というわけですが、源氏の氏神である八幡宮をまだ開府される前の鎌倉に祀ったということは、鎌倉時代以前からでも、いかに源氏にとって鎌倉が重要な土地であったか、ということですね。。。

境内には「源義家公 旗立松」なんてのもありますが、どうもすでに根っこもなくて、ただ「これがそうだった」というような木が置いてあるだけのような感じになってしまってます。


また小町大路に戻り、この頃になるとフライパン化した舗装路のおかげで死にそうに暑くなってきたので、途中の駄菓子屋さんでアイスやジュースの買い食いをしたりしながらさらに南下して、九品寺です。





九品寺は鎌倉攻めの総大将だった新田義貞が、鎌倉幕府滅亡後に北条方の戦死者を弔うために、鎌倉攻めの際本陣を構えたとされる材木座に建立したものです。

で、山門の「内裏山」と本堂の「九品寺」の文字は新田義貞の文字を写したものといわれています。

ここまで来ると、もう海はすぐそば~!!

材木座海岸に行き当たって、今度はそのまま海岸に沿った道を東に向かうと、やっと本日最終目的地の和賀江島です!


和賀江島は国の史跡にも指定されている、現存するわが国最古の築港遺跡です。

もともと鎌倉の前海は遠浅で船の着岸には向いておらず、また波浪によって難破・転覆する船も少なくなかったため、勧進上人往阿弥陀仏が鎌倉幕府3代執権北条泰時の協力を得て、伊豆石などで島を築いたものです。

鎌倉時代には日本各地のみならず宋からの船も着ていたようですし、江戸時代までは港として利用されていたようですが、度重なる震災や老朽化により、現在では石のがれきが島となってのこるのみです。

写真の漁船の脇にうっすらと見えている浅瀬が、和賀江島です。
遠浅なので、干潮になると島まで渡れるらしいのですが、満潮になると水没してしまうようです。

行ったときには潮が満ちていて渡ることはできなかったんですが、それでもなんとか見ることが出来てラッキーでした☆

ちなみにこの和賀江島あたりの海岸では、その昔難破した船などの積荷だった瀬戸物の破片がよく流れ着いているそうです。

なので、私たちもせっせと探してみました・・・が、時代の新しそうなものやガラス瓶の破片ばかりで、なかなかそれらしいものは見つけられないですね~☆


山から海まで、ディープな鎌倉。

もし自分で回ろうと思ったら、なかなか行かないようなところを回れて(特に古道好きな私めの好みとリクエストに沿っていただき)、本当によかったです!

今度は、今回行かなかった他の切り通しや鎌倉の外郭をなす山々も回ってみたいですね~☆


(おまけ)
・・・で、本日の行程は終わったんですが、その後少し時間があったので、やっぱり鎌倉といえば、の朝にスルーした鶴岡八幡宮に参拝いたしました。。。

自分たちは他の人の行かないところばかり回ってたのであまり思わなかったんですが、やっぱり観光地だけあって人が多い!




参拝する前に、段かずらの二の鳥居のところで路駐自転車に足をひっかけて、本日二度目の「空をとんで負傷」事件があったんですが、まぁ後は滞りなく本殿、舞殿、源平池などをフツーに回り、
小町通りから1本入った、観光客は普通行かないようなディープな通りの、てらさん行きつけのお店で、かんぱ~い!

美味しいお酒と肴に舌鼓を打ちつつ、この日の反省と歴史談義に花を咲かせながら、2日目に向けて、ディープな鎌倉の夜は更けてゆくのでした・・・♪


背筋ぞくぞく・・・? ~鎌倉珍道中その2~

さて、朝比奈切り通しを通り抜けて(鎌倉珍道中その1)、再度鎌倉市内に向けて戻るべくバスに乗り込んだ岡田さんてらさんさとみんさん&私めのディープな鎌倉めぐりご一行ですが、次はどこに行きましょうかという声が・・・?

私は今回の鎌倉めぐりで、切り通しのほかに一ヶ所だけ行きたいところをリクエストしていたんですが、その他には特段こだわりはありませ~ん☆

じゃあ、ということで、てらさん岡田さんであらかじめ相談しておいたスポットを時間に応じてたどって、最終目的地・岡田さんリクエストの和賀江島まで、そこからずっと散策することに。


で、途中の杉本観音というバス停で降りて歩き出しました~が、お腹すいた!
考えてみたら、朝比奈切り通しを通り抜けた時点でもうお昼だったんですよね☆

そんなお腹空いた目で見ていたら、歴史的な景観とか地形とかよりも、ついつい食事のできそうなお店ばかり目に入ってしまふ・・・

そんな中、バスの通る表通りから小学校のある閑静な住宅地へと入ってしばらくのところで目に入ってきたのが、瀟洒ないい感じのカフェレストラン。




お店の前においてあるメニューボードを見ると、ランチが鎌倉にしてはリーズナブルなお値段♪
さっそく飛び込むことに☆





気さくなおじさんマスターが切り盛りしているこのレストランは、鎌倉野菜をふんだんに使ったヘルシーそうなメニュー揃いです。

私たちもそろって「季節の鎌倉野菜どんぶりランチ」1000円ナリをいただくことに。
ソテーした鎌倉野菜がごはんの上に彩りよく乗っていて、これにお味噌汁がついています。

さとみんさんと私はしっかり食べた感でしたが、男性陣にはちょっと量が少なめだったかな・・・?
マスターは野菜のことを訊くと、実物を持ってきてくれたりして(写真はズッキーニらしい)、結構居心地よくゆっくりしちゃいました。

(CAFE Kaeru)
http://r.gnavi.co.jp/jghnbzjx0000/




さてさて、まだそんなに回っていないのにゆっくりしてもいられない・・・
というわけで、お店を出てさくさくと護良親王のお墓へ。。。

後醍醐天皇の皇子の護良親王は鎌倉幕府滅亡後の建武の新政で征夷大将軍に任じられたのですが、足利尊氏や父・後醍醐天皇との不和により、皇位簒奪を企てたとして捕らえられ、鎌倉に送られて二階堂が谷の東光寺に幽閉されます。

そして、翌年の北条時行の中先代の乱で、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、時行に奉じられることを警戒した足利尊氏の弟直義により殺害されてしまうのです。。。


で、そのお墓なんですが・・・この奥の階段×4倍くらいの階段を登っていかないとたどり着けない☆
どうする?行ってみる?と訊かれて、迷わず、「パス!」

この場所で手を合わせて・・・次の訪問先は護良親王が幽閉されていた東光寺跡に、明治になって護良親王の霊を弔うために建立された鎌倉宮です。



さて、その鎌倉宮に向かって歩いていると、前方になにやら看板と数段の階段を登った上に広がる原っぱ様の高台が・・・

看板を見ると、源頼朝が源義経や藤原泰衡をはじめとする奥州合戦の戦没者の慰霊のために、奥州平泉の二階大堂大長寿院を模してつくったという永福寺(ようふくじ)の跡で、発掘調査のあと史跡公園としての整備を進めているところだとのこと。

ちょっとのぞいてみましょうか・・・とみんなで階段を上りかけ・・・

・・・え?
・・・・・えっ?

・・・・・・・ええええっ???


何の変哲もない階段で足を踏み外し、踏みこたえようとしてまた足を踏み外し・・・
ついにこらえ切れなくなって、空とんで転げてしまった~!



左手に持ったスマホをかばいつつ右手で支えようとしながら転げた結果、右手の手のひらの皮が直径2cmほどべろんとむけて血がだらだら、その他に右ひじと左ひざに擦過傷。

幸いなことに、さとみんさんが絆創膏とミネラルウォーターを持っていたので、傷口をじゃぶじゃぶよーく洗って絆創膏を貼って、とりあえず応急手当できました・・・

今回は鎌倉のタウンウォーキングと侮って救急キットを持ってこなかったので、さとみんさん感謝!です(^^;)

しかし・・・これは護良親王のお墓にちゃんとお参りしなかったからかな・・・?




永福寺跡の復元状況を横目にみながら、今度こそ(?)鎌倉宮へ。

この鎌倉宮の本殿の裏手には護良親王が幽閉されていた土牢なる土窟があるそうなのですが、有料ゾーンなので、時間もないことだし今回はパスすることにして・・・

先ほど痛い目にあったばかりなので、今度はしっかりとお参りです。

拝殿の脇に村上社なる小さなお社があって、その前に「撫で身代わり様」という木像が置かれています。

この「撫で身代わり様」は、吉野の戦いで護良親王の身代わりとなって戦死した村上義光の姿を、境内の樹齢103年の欅の大木で彫り上げたもので、気になる場所を撫でるとご利益があるのだとか・・・

村上社にもお参りしたあと、私も心をこめて怪我したところを撫でなで。
心なしか、痛みが少し和らいだ気が・・・?



次には、拝殿の前に置かれている「厄割り石」で厄祓い。

かわらけに息を吹きかけて体の中の悪いものをうつしてから、そのかわらけを厄割り石にたたきつけて割ると、厄が祓われるということです。

かわらけは1枚100円。

ところが岡田さんは小銭が500円玉しかなかったので、それでかわらけを5枚購入し、他の3人は岡田さんに100円ずつ渡し1枚ずつもらって、それで厄払い。

ところが・・・私の投げたかわらけのみ、厄割り石と全然別方向に飛んでいって、厄が祓えなかった~!(ToT)


幸い、岡田さんの手元に5枚のうち2枚残ってたので、もう100円渡してプラス1枚もらい、なんとか厄祓い完了。




でも、1発で気持ちよく割れなかった何ともすっきりしない気分を抱えつつ、お参りを終えて参道「お宮どおり」へ出て、清泉小学校の角にある大蔵幕府跡の碑の前で、小学生の作った鎌倉の歴史や史跡を紹介する手作りパンフなどを見てから、源頼朝公のお墓へ。



「源頼朝の墓」は、頼朝自身が政務を執っていた大蔵幕府をみおろす大倉山の中腹にあります。

「大蔵幕府」というのも、もともと鎌倉時代に武家の政権を「幕府」と呼んでいたわけではなくて、そもそも将軍の陣所を指す概念の「幕府」を、頼朝公の居館であり侍所が置かれた「大蔵御所」にあてはめたもののようです。

その居館を見下ろしている頼朝公のお墓は、頼朝の持仏堂として建てられた「法華堂」の跡にあります。

現在の多層塔(供養塔)は、安永8年(1779年)に薩摩藩の島津重豪が建てたもので、毎年4月13日には島津家ご当主も出席して「頼朝公墓前祭」が執り行われてるのだそうです。

だから、お墓についている紋が頼朝公の家紋といわれている「笹竜胆」だけじゃなくて、島津家の「丸に十字」があるのか~!

・・・しかし、なぜ島津?


首をひねりひねり頼朝公のお墓を後にして、次はいよいよ今回の私のリクエスト「東勝寺跡 北条高時腹切りやぐら」です♪

なぜ?と言われると特に理由はないんですが、なんとなく自分の中にインパクトがあったというか。。。

これが東勝寺の跡です。



東勝寺は鎌倉幕府三代執権の北条泰時が創建した寺院で、北条得宗家の氏寺でしたが、元弘3年(1333年)新田義貞の鎌倉攻めの際に第14代執権の北条高時が一族郎党870名あまりと立てこもって、火をかけて自害し最後をとげた、鎌倉幕府滅亡の地でもあります。

平成8~9年に行われた発掘調査では、この場所から鎌倉幕府滅亡時に焼失したと考えられる建物の跡とそれを覆う十数mの炭の層が発見されたということです。

そしてこの裏山、写真の山道の左側に入ったところに、「腹切りやぐら」はあります。




腹切りやぐらは東勝寺で自刃した北条高時ほか一族郎党を供養するためのやぐらだということです。

まずは神妙にお参りをして、それから周囲をよくよく見ると、奥に立てかけてある卒塔婆の中に「高倉健」の名前を発見!

こんなところになぜ?と、その場でみんなでweb検索して調べてみると・・・

幕府滅亡時に自刃した北条一族のひとり「苅田式部太夫篤時」なる人が俳優の高倉健さんのご先祖なのだそうです。

だから、ご先祖の供養ということで卒塔婆が供えられてるのだそう。

う~ん、思いもかけぬつながりって、あるもんなんですねぇ☆


さて、バスを降りてからここまで、よくよく考えると、どういうわけかお墓だったり供養の場ばかりのような・・・痛い目にもあってるし厄払いも一発ではできないし、どうもちょっぴり背筋がぞくぞく。

これも歴史ある古都ならではのディープさなのでしょうか?
さらに最終地・和賀江島のある海に向かって、珍道中は続きます☆


古道好きにもディープな鎌倉? ~鎌倉珍道中その1~

鎌倉古道にハマッてからというもの、やっぱり基点であるところの鎌倉、それも鎌倉七口といわれる坂や切り通しに行きたいな~とずっとつらつら考えておりました。

やはり、鎌倉七口は、海と背後の山々を外郭としたいわば城砦ともいえる「鎌倉」の出入り口なわけですから。。。

・・・とTwitterでぶつぶつつぶやいていたら、なんと鎌倉達人?の岡田さんとてらさんの2人のフォロワーさんが少人数案内ツアーを開催してくれることに!



で、岡田さん、てらさん、私ともう1人、やはりフォロワーさんのさとみんさんの4人での決行当日。

鎌倉駅前、小町通りの入口の大きな赤い鳥居の下に集合して、すぐに手渡されたのはこ~んな素敵な手作りのパンフレット!


実は私とさとみんさんにリクエストを聞いておいて、岡田さんとてらさんで行程を決めてそれぞれに資料をそろえてくれてたものです。

なので本日の行程も、実はシークレット。当日までまったく知りませんでした。

というわけで、今回はものすごくディープな鎌倉を案内してくれるとのこと。
すごく楽しみなミステリーツアーに、いざ出発!



さて、まずは小町通り。まだ朝早いせいか、ほとんどのお店は「準備中」。
でもそんな中でもしっかり「ゆずソフトクリーム」をゲット。





ソフトクリームぺろぺろしながら小町通りを通り抜け、鎌倉十井のひとつ「鉄(くろがね)の井」の角をまがると、鶴岡八幡宮の前に出ます。

鎌倉で最もメジャーなスポットですが、今回はスルー。
八幡宮前のバス停からバスに乗って、十二所バス停で降りると・・・



「ほら、やぐらがあるよ~」と、てらさん。

見ると、崖に穴がいくつもぼこぼこ。。。

「やぐら」といえば、有名な東勝寺の「腹切りやぐら」に代表される、平地が少なくて岩盤の軟らかい鎌倉に特有の、中世の横穴式墳墓。

うわぁ~!こんなところに~?

っと、とびついて写真を撮る私たちにてらさんが言うには、鎌倉ではこんな「やぐら」穴は珍しくもなんともなくて、むしろそれを「やぐら」と言ってしまうといろいろ問題が出てくるので、ただの穴ということで見てみぬふり?なのだそうで・・・

言われてみるとそこだけではなくて、確かにあっちにもこっちにも穴が開いてる・・・(^^;)

鎌倉って、そういうところなのかぁ。。。と変に納得しながらそのまましばらく歩いて橋を渡り、到着したのが光触寺。


光触寺は時宗の開祖である一遍上人が開基と伝えられているお寺です。

ご本尊の阿弥陀如来像(頬焼阿弥陀)には、盗みの疑いをかけられた法師の罰の身代わりになり、頬に焼印が残ったという伝説があります。




これは塩嘗地蔵です。

鎌倉時代より六浦(今の横浜市の金沢八景の方)から朝比奈峠を越えて鎌倉に塩が入ってきていたのですが、塩売りが峠を越えて鎌倉に入るときにお供えした塩が帰りにはなくなっていたことから、そのように呼ばれるようになったのだということです。

・・・ということは、この光触寺から先、六浦方向に向かう山の旧道こそがいよいよ「朝比奈切り通し」につながっているというわけです~!


光触寺から太刀洗川という川に沿ってしばらく進むと、いかにも「道を通すために掘り切りました!」というような場所があり、左手の高みから庚申塔や馬頭観音などが道を見下ろしています。

あとで知ったのですが、この庚申塔などがある高くなっている部分は「塁壁状遺構の残存部分」なのだそうで、このあたり一帯は「朝比奈砦跡」として遺跡に指定されてるのだそうです。



・・・ただの「ヘンな地形~」とスルーしちゃいました☆

「朝比奈砦跡」というのは朝比奈切り通しの西側(鎌倉側)にあった、峠道の防御施設と考えられていて、発掘調査でこれまでに掘っ立て小屋の跡や納骨堂の跡が発見されているようです。

知ってたら突撃してたかも・・・ちゃんと予習しないとダメですよね~(><)


そのままさらに太刀洗川に沿って進むと、いよいよ切岸状に人の手が入った「切り通し道」に入ってきました。





・・・しかし、このスケール!
いかに道を通すためとはいっても、よくこれだけの高さの崖を削ったよね~☆という感じです。

てらさんや岡田さんによると、このあたりの岩盤の石は「鎌倉石」という水の中で堆積してできた砂岩が主で、非常に軟らかくて削りやすいのだそうです。

だから「掘ったり削ったりすることに抵抗のない土地柄なんじゃないの~?」byてらさん☆


この鎌倉石は鎌倉のお寺で石段などによくみられるそうなのですが、軟らかいからかなり摩耗する(=でも風情が出る)そうなんです。

そういえば先ほどの光触寺の石段にも使われていたようですし、太刀洗川の河床も川水で削られて水路のようになっていました。

そして、この「朝比奈切通」の石碑と小さな滝に行き着いたら、いよいよここからが「国指定史跡 朝夷奈切通し」のエリアです。




この先はそれまでよりもさらに道の勾配が急な登り道になります。
しかし、よく見ると両側の自然地形からかなり深く掘り割られて道が作られているのがわかります。


ここでもう一度ざっとおさらいすると・・・

朝比奈(朝夷奈)切通しは「鎌倉七口」のひとつで、鎌倉から現在の横浜市金沢区方面(六浦)へ抜ける道(金沢道または六浦道)の峠にある切通しです。

三浦半島の付け根にある鎌倉の海はもともと遠浅で、和賀江湊という港湾施設は作られたものの、船舶の着船には不向きなでしたが、一方、半島の付け根の反対側に位置し幕府執権北条氏の一門金沢市の所領でもある六浦は着船に非常に向いた場所でした。

そのため、しだいに幕府の重要な外港となっていった六浦津と鎌倉とを結ぶこの切通しの整備は、鎌倉幕府にとって軍事的にも経済的にも重要視されていたもののようです。

吾妻鏡にも執権北条泰時自身が六浦道の工事現場に足を運び、泰時自身の乗馬を持って土石を運ばせてたという記事がありますので、いかにこの六浦道と切通しが重要視されていたかがわかります。

そして・・・





切通し道はかなりの区間、鎌倉石の地盤が掘り出されて露出してまるで舗装道路のようになっていて、道の両側は排水のための溝が切られています。

しかも急勾配のところは、岩盤が馬でも登りやすいような低い段差で階段様に道が削られているし。。。

だから、雨が降っても足元があまりぬかるまないようになっているというわけ☆


・・・すごいわ、鎌倉幕府~!

ただし、どこまでの部分が鎌倉時代のものであるのか、勉強不足であるためよくわからないのですが(笑)

さて、やっとこせっとこ峠を登り切って、鎌倉市と横浜市の市境を越えま~す。
写真の市境標のところが市境線です・・・どっこいしょ!(笑)




この市境のあたりは「大切通」というそうで、大きな崖岩が18mほども垂直に切り下ろされて道が通されています。

この崖岩の断面には、さらに巨大なやぐら様に人工的に手が加えられています。




ここが本当にやぐらだったのかどうかは定かではありません。
でも、この直角にきれいに削り混まれた崖岩を見るに、ここには街道防御のための何らかの建物があって、その一方の壁としてこの岩壁が使われていたとしても不思議ではないな、という気がします。

ちなみにこの崖岩の前を通る道にごろんとある岩はただの岩ではなくて、街道に一度に大勢がとおれないように置かれたものなんだとか・・・(これまたbyてらさん)

ただし、残念ながら岩壁に掘られたレリーフ様の仏様はわりと新しいものだそうです。



この「大切通」のあたりが、山を一番深く掘り下げているようです。
この崖の一番上が元の地表なようですから・・・「人間スケール」と比べるとよくわかりますね~☆

この「大切通」から道は今度は東に向かって下り坂になります。
しばらく進むと「右 かまくら道 左 熊野神社」の道標が。。。




「かまくら道」というのはこれまで通ってきた切通し道のこと。ここは熊野神社の参道との分かれ道です。

熊野神社への道の入り口にある看板によると、熊野神社は源頼朝が鎌倉の鬼門に当たるこの場所に熊野三社大明神を勧請して、北条泰時が社殿を建立した、とのこと。

「ここからすぐだから行ってくれば~」とてらさんが言うので行ってみることにしました。

・・・が、「すぐ」ではなかった~!尾根を巻いてくねくね行く感じで、歩いて5分くらいは優にかかりました(--;)




社殿もかなり新しい感じ。まぁ、現在でも村社として里人の崇敬篤いのでしょう。
ワタシ的には、参道の方がいかにも「古道の堀割状遺構」っぽくて、萌えましたが♪

この熊野神社への「参道入り口」分かれ道のところは、熊野神社側に多少平場になっています。
そして、藪でわかりにくいのですが道の下段にある平場の一部が窪んでいます。

ぶうぶう言いながら熊野神社からもどってきた私たちに、ひとり分かれ道のところで一服しながら待っていたてらさんが言うには、かつてはこの場所まで熊野神社の境内で、この窪みのところは神社の神池だったのではないか、と。

ふむ、そう言われるとそう考えられなくもないか・・・真偽のほどはわかりませんが。。。




で、今度は上段側の平場に登ってみると・・・

あった!先ほどの「大切通」の崖岩と同じく、確実に人工的に加工されたやぐら様?遺構!
ということは、祠祭的なものか防御的なものかわかりませんが、この場所にも何らかの施設があったのではないか、と思われます。

この分かれ道のあたりを下から見あげるとこんな感じ。
写真の左手方向が熊野神社方面で、多少平場になってる場所です。



ここから六浦方面に向かっての下り道は、少々趣が変わってそれほど深く掘り下げられてはいない堀割道が続いています。

足元に石畳とみまごうばかりの「土のう」がならんだ道をそのまましばらく下っていくと、また見事に岩盤を掘り切った場所に出ます。



ここが「小堀切」です。

「小」とはいっても、さとみんさんスケールと比べればわかる通り、右側の岩の高さ(さとみんさん×4)=12~13mくらい岩を掘り下げています。

左側は上の方が草や枝で見えないのでなんとも言えませんが、15~16mくらいの高さがあるようです。

そして、この場所で道は極端に狭く、そしてカーブを描いているので六浦側から鎌倉方面への見通しが極端に悪く、鎌倉側の防御性がかなり高くなっています。

さらに、岩の直角の切れ込みや崖上部のやぐら様の遺構などからすると、この場所に門や関所があってもおかしくはない感じ。

・・・古道好きとしては、もううっとり♪

この先をさらに進むと、切通し道の上を横浜横須賀道路のコンクリート高架橋がまたいでいる・・・というよりは上部を削り取って走っています。



道の両側は、もとはもっと高かったんだと思いますが・・・
それでも排水路はしっかり残っていてうれしくなります。

この高架橋をくぐると左手に石仏が並んでいて、車止めと切通しの看板があり、普通の舗装路に出て、これで古道は終わります。

ただ、その先の広場にぽつんと一本の大きな「ご神木」があって、ここにももしかしたら熊野神社の何らかの施設があったのかも、という気がします。。。

ご神木の先で道は六浦・金沢八景方面に向かう県道23号線に突き当たります。
きっと六浦道はそのまままっすぐ六浦津につながっていたのでしょう。。。


というところで、時間はしっかりお昼近く。
いや~、朝比奈切通しだけで午前中一杯すっかり堪能しちゃいました!

でも、古道にハマッてて鎌倉街道つながりの切り通しに行きたい~!と叫んでいた私の希望をかなえてくれて、こんな素敵な切り通しに連れてきてくれた岡田さんてらさんに感謝感激です♪


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・・・と、ここで終わってはいけません。今回の鎌倉ミステリーツアーは、実は2日間行程。
まだまだ最初の半日です。

で、バス停から再度鎌倉方面に戻るバスに乗り込んだら、「次はどこに行きたい?」
へ?次にいくところは決まってなかったんですか~?

さすが、ミステリーツアー。
というわけで、午後に向けて鎌倉珍道中は続きます☆