2014年8月25日

涙ナミダの飯盛山・・・ ~会津旅行2日目~

大内宿からほど近い阿賀川沿いにある湯野上温泉の1軒で、の~んびり鋭気を養ったら、2日目はいよいよ会津若松に入ります。

まずは会津旅行1日目のブログ別記事でも書いた、下野街道(会津西街道)に沿って走る国道121号線で、まっすぐ&一目散に鶴ヶ城(会津若松城)に馳せ参じまするぅ~!





というわけで、午前中いっぱいかけてゆっくりじっくり鶴ヶ城散策を楽しんだのですが、城ネタなのでその様子はまた、別ブログ「natchdesの城攻め備忘録」の記事の方で・・・(^^)ノ


さて、鶴ヶ城に夢中になっているうちにすっかりお昼を回ってしまって、実はすっかりおやつ時♪
されば、と鶴ヶ城の北側、会津若松市役所の近くにある「三番山下」というCAFEをnetでみつけて行って見ることに。




「三番山下」は昭和9年(1934年)築の建物の2階にあります。
廃校から譲り受けた机や椅子を再利用した、なんとも不思議な空間のお店です。

コーヒーやスイーツの器に使われているのは会津本郷焼の磁器だそうです。

会津本郷焼というのは、1593年にその当時の領主である蒲生氏郷が薩摩国から瓦工を呼んで、鶴ヶ城の屋根瓦を製造させたのが始まりで、17世紀中ごろに当時の藩主保科正之の求めに応じて瀬戸から陶工が呼ばれて、本格的に焼き物の基礎が築かれたのだそうです。

その土地を訪ねて行ったときに、古くからある建物や、土地ならではの器などに直に触れ合えるのって、うれしいですよね~!

「三番山下」を出てから気がついたんですが、お店が面している通りは「野口英世青春通り」というのだそうです。

そのわけは・・・お店の斜向かいにあるこの建物。




「野口英世青春館」。野口英世がやけどを負った左手の手術を受けて、書生となった会陽医院の跡で、野口英世が使っていた部屋や資料が残されていて、2階が展示室になっているのだそうです。


さて、お腹も落ち着いたことだし、鶴ヶ城に行ったなら次なるスポットは、やっぱり飯盛山でしょう!




というわけで、飯盛山です。


「飯盛山」の名前は、この山がご飯を盛ったような形であることからつけられたと言われています。

この飯盛山は、慶応4年(1868年)の会津戦争の際に、藩士子弟のうち16~17歳の少年たちで構成される白虎隊とよばれる部隊のうちの士中二番隊が、猪苗代湖畔の戸ノ口原における新政府軍との戦いにおいて敗走し撤退する際に、鶴ヶ城周辺の武家屋敷が燃えているのを落城と錯覚して、自刃をした地です。

案内板によると、山の上には自刃した白虎隊十九士のお墓と、戦死した白虎隊三十一士のお墓があって、まーっすぐ登る石段と、平行して登るエスカレーター(スロープ・コンベア)があるとのこと。
ただし、エスカレーターは有料!

なので、たいした距離でも段数でもなさそうだし、じいちゃんばあちゃんはエスカレーターに乗せ、私は日ごろ鍛えた?足で階段直答GO!




飯盛山は標高372m。階段を一気に登って、エスカレーターの終点付近まで行くと、まだ山の中腹ではありますが、遠く町並みが見渡せます。

エスカレーターの降り口からまたさらに石段を上がって、お墓のエリア。
年間200万人ともいわれる観光客が訪れ、絶えることなく香華が手向けられています。




墓域にはムッソリーニが寄贈したという古代ローマ時代の石柱による記念碑があったり、戦前の駐日ドイツ大使館員が個人的に寄贈したという記念碑があったりして、ちょっとびっくり☆

私たちもお線香を手向けて、墓域からさらに奥にある「白虎隊自刃の地」へ。




白虎隊の少年たちはこの場所から鶴ヶ城を眺めた、ということで、その姿を表した像があります。




・・・が、墓域から自刃の地まで行くには、墓地の中のかなり狭くて急な階段を下らなければならないので、足弱な年寄り、特に杖を使って歩いているうちのじいちゃんには全く優しくない道です。。。

墓域のあたりと違って、自刃の地からは会津若松の町が一望の下に見渡せます。

そして、「鶴ヶ城をさがせ」。

ちょっと写真ではぼけぼけになっちゃってわかりづらいんですけど、ちょうどアンテナらしきものに串刺しになって見えるという残念な状況で、鶴ヶ城の天守が見えます(笑)

そういえば、飯盛山に来る前に鶴ヶ城の天守に上った時に、このアンテナ見えたなぁ・・・

再び杖を使ってじいちゃんたちがえっちらおっちらと、あまり優しくない階段を登って墓域に戻り、さらにエスカレーターを降りたところまで石段を下ると・・・下りのエスカレーターがない!

エスカレーターは上りだけ。さざえ堂の方へ行くように順路を作っているせいだと思うけど、その道がまたカーブをともなった結構急な下りの舗装路。

杖をついた年寄りが歩くにはつんのめってしまって危ないなぁ、と思っていたら案の定!
ちょっと目を離したとたんに、前につんのめって坂をごろんと転がるじいちゃん(><)

幸いなことに、ワタシの足にぶつかったのがクッションになったらしくて、ついた手をすりむいたくらいで、それも城攻め常備の救急キットを持っていたので応急手当ができたので、大事無くはすんだんですが・・・

まったくもって年寄りに厳しい観光スポットですよね~!

で、さざえ堂です。




さざえ堂というのは、江戸時代後期の東北~関東地方に見られた特色的な仏堂で、外観がさざえに似ていることからそう呼ばれているそうです。

この飯盛山のさざえ堂は二重螺旋構造になっていて、中に入ると回廊がぐるぐるとらせん状に登り坂状態で上に向っています。

そして、写真右手の窪みは三十三観音などが配置されるようになっていて、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造になっています。




二重螺旋構造なので、いちばんてっぺんまで登ると、今度は反対側に降りる回廊が続いていて、登る人と降りる人が会わずに(つまり同じところを通らずに)下までぐるぐると降りられるという、なかなかに面白い構造になっています。

ただ、寛政8年(1796年)に建てられてから300年経っている建物で、しかも国の重要文化財でありながら個人所有であるせいか、一足歩くごとに床を踏み抜きそうなギシギシ感がなかなかにスリリング(笑)

さざえ堂からさらに下ると、白虎隊の少年たちが潜ったという戸ノ口堰洞穴に出ます。

戸ノ口堰用水というのは、猪苗代湖北西岸の戸ノ口から会津盆地へ水を引く全長31kmにも及ぶ用水です。

そのうち、飯盛山の下に約150mにわたって洞穴が掘られており、その出口がぽっかりと口をあけていて、戸ノ口原から撤退してきた白虎隊の少年たちは、この洞穴を通って飯盛山まで来たというのです。




案内板に拠れば、そのときに白虎隊がたどった道はこんな感じ。
でも、30kmも歩いてきて、しかも暗い洞穴の中をずぶ濡れになって・・・

それに、この水の流れはこんなにも速くて、歩くのも容易でないというよりも流されちゃうし、とてもとてもこの洞穴を通ったなんて信じられない!(><)

いったいどんな状況、どんな心境であったら流される危険を冒してまでこんな狭い洞穴を150mも潜ろうなんてことになるのか、想像もつきません。





ちなみに、戸ノ口堰用水の近くに、どこまでもさりげな~く目立たな~く、戸ノ口十六橋の石材がおいてありました☆



ここで、さすがに転んだときにひざを打ったらしく、じいちゃんがギブアップ。

早めに宿に入って、会津のお酒を楽しみながら旅の最終日
に備えることといたしました。

ちなみにお酒は名倉山と萬代芳。

会津の地酒は奈良萬と榮川は知ってたんだけど、この2つは初めて。

名倉山は確かにすっきり系で飲みやすい感じ。萬代芳も日本酒らしい日本酒って感じですかね~☆

さっそく名倉山、自宅用に買ってしまいました。
やっぱ、その土地のものを楽しまなきゃ、ですね♪

というわけで、3日目に続く~! (→ 続きはこちら!