2017年5月6日

称名寺@金沢文庫

3月に引っ越しを手伝ったんですが、新居が落ち着いたからということで八景島近くまで訪問することに♪

その引っ越しのときには、図らずも鎌倉古道を見つけたんですが(その時の記事はコチラ)、今回もちょっとだけ鎌倉幕府に関連して・・・せっかく八景島近くまで埼玉から遠征してきたので、ほど近くにある執権北条氏にゆかりの称名寺に行ってみることにしました。




称名寺は鎌倉の東の境界にあたる六浦にあります。

鎌倉時代の六浦は現在の海岸線よりもかなり内陸に海が入り込んでおり、鎌倉中心部とは六浦道(朝比奈切通・地図のオレンジ線)で連絡していて地の利も良かったので、鎌倉幕府の諸物資の揚陸地として鎌倉幕府や鎌倉の消費を支える外港として栄えていたようです。




称名寺はこの六浦を所領としていた鎌倉執権北条氏の一族・金沢北条氏の祖、北条実時(鎌倉幕府2代執権北条義時の5男実泰の子)により、海からほど近かったであろう高台に開基されました。

称名寺の南側にある薬王寺の墓地あたりから見ると、すとーんと土地が下がっていることがよくわかります。



称名寺周辺を地形図で見てみても、古い時代には海岸線であっただろう段差がよく見て取れます(地図のオレンジ線部分)し、実際に歩くと各所に海蝕崖と思われる崖があちこちに見られます。





称名寺の赤門の脇がこんもりと盛り上がっていて、土塁みたいだな~☆とちょっと気になっていたら、どうもそのあたりに貝塚があるらしい!(地図の赤丸部分)


貝塚は縄文時代後期のものらしく、縄文式土器やイルカの骨なども多く確認されているとのことです。

そして思ったよりこじんまりとした明和8年(1771年)建立の称名寺の赤門。


鎌倉時代には金沢北条氏の菩提寺として発展したお寺だけあって、門にはしっかり北条三つ鱗門!

赤門をくぐると、奥に向かってまっすぐ伸びる参道。緑が涼しげ♪


参道脇には、甘味処や喫茶店などとともに、横浜市指定有形文化財の称名寺塔頭光明院表門が建ってます。

この表門は小規模な四脚門ですが、寛文5年(1665年)に作られた切妻造茅葺の渋いたたずまいです。


参道をそのまま進むと、やがて文政元年(1818年)復興の仁王門が見えてきます。

門のそばにいらしたボランティアガイドさんによると、金沢北条氏初代の実時の時に六浦荘金沢の居館内に持仏堂として建てられ、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備されたものの、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅びたため、お寺も荒廃してしまい、江戸時代になってから大幅な復興が行われて、この仁王門もその際に再建されたようです。


この仁王門の脇の柱には象の顔の飾りがついているんですが、ボランティアガイドさんによれば、真ん中の飾りだけは象ではなくて獏なんだそう。それは「耳の部分で見分ける」とか。

たしかに角の柱の象さんにはついている耳が、真ん中のにはついてない・・・!
そんなこと、言われなくちゃ(言われても)わかりませんよね~☆
ちなみに、その示すところの意味については、ガイドさんも「わからない」とのことでした(^o^;)


仁王門を抜けると、広大な庭園苑池と池にかかる反橋が目に飛び込んできます。
そのたたずまいから古くからある橋なのかと思ったら、平成19年(2007年)に架け換えられた、つまり10年しかたっていないものだとか。

なんでもこの庭園は、発掘調査の成果と重要文化財「称名寺絵図」に基づいて、10年の年月をかけて鎌倉時代の造営当初の姿に復原した浄土式庭園(浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園)なのだそうです。


苑池を挟んで彼岸と此岸と位置づけて、橋を渡って浄土へ渡る配置になっているのだそうです。浄土である苑池の向こう側には金堂、鐘楼と釈迦堂が見えます。

文久2年(1862年)建立の釈迦堂の屋根にも北条三つ鱗紋。
鐘楼の梵鐘は、「金沢八景」の1つ「称名の晩鐘」として歌川広重の浮世絵にも描かれた名鐘。「文永己巳仲冬七日」の旧銘と「正安辛丑仲和九日」の改鋳銘がありますが、初代実時が文永6年(1269年)に鋳造させた鐘が地震によって壊れたため、正安3年(1301年)に2代顕時によって改鋳されたものなのだそうです。


そして天和元年(1681年)建立の金堂。ご本尊は重要文化財の木造弥勒菩薩立像です。
よく見ると、屋根の軒丸瓦の模様が全部三つ鱗!


金堂にお参りした後、庫院にて御朱印をいただきました♪
ご本尊を示す「弥勒」の下の文字がどうにも読めない・・・(^^;)

称名寺は金沢北条氏の菩提寺ということで、庫院左手方向の山陰に2代顕時・3代貞顕の墓所がありました。


2代顕時は初代実時の子で、鎌倉幕府の重職であった引付集や評定衆などを歴任しています。

また、3代貞顕は顕時の子で、六波羅探題を勤めたのち第15代執権となり、新田義貞の鎌倉攻めの際に北条高時および北条氏一族とともに鎌倉東勝寺で滅んでいます。

墓所の西側の山肌に小さなトンネルが掘られています。
なんだろう?と行ってみると、くぐった先にあるのは神奈川県立金沢文庫。称名寺に伝来した工芸品や古文書などを収蔵する博物館です。


この県立金沢文庫の建つあたりは「文庫ヶ谷」と呼ばれていて、もとは金沢北条氏3代によって収集された和漢の貴重書を収めた書庫である中世の金沢文庫が建っていたところと推定されています。

中世の金沢文庫は鎌倉幕府滅亡によって称名寺が管理を引き継ぐこととなりましたが、蔵書の大半は室町幕府、上杉氏、小田原北条氏、豊臣秀次、徳川家康、加賀前田家など、歴代の権力者によって外に持ち出されてしまったとのことです。


しかし、現代のトンネルのそばに「称名寺絵図」にも一致する「中世の隋道」が残っていて、発掘調査ではこの隧道に続く中世の道路も検出されているそうです。
ただし、入れないように厳重に柵で封鎖されてますが・・・☆


本来の称名寺の寺域は、初代実時の墓所が日向山の方にあるなど、背後の丘陵まで含めた広大なもの(おそらく写真内の図の「史跡指定範囲」)だったと思われ、とても回りきれませんでしたが、赤門から仁王門、庭園の周囲などを回っただけでも、思いもよらず中世が復元されていて、鎌倉の外側なのに鎌倉幕府の跡が色濃く残っていたことにびっくりした散策でありました。


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